一番近くて一番遠い人へ 水森朝霧

 最後の客を見送った朝霧は店内の掃除を始めた。フロアとキッチンを手早く片付けて、あっという間に清掃作業を終えると、入口の扉を施錠し消灯。そしてカフェの2階へと上がっていく。

「さて……日付が変わる前に食材の発注をしないと」

 スタスタと階段を上り、その先にあるドアを開く。そこに現れた玄関に入ると朝霧は後ろ手でドアを閉める。そのまま靴を脱ぎ段差を上がって振り向き、脱いだ靴を揃える…そう、カフェの2階は朝霧の住居だった。

部屋に入ると「発注せよ」という脳の指令とは裏腹にソファーへまっすぐ歩いていく。そのまま腰を下ろしてぼんやり観葉植物を見つめていると、そろそろ水をあげなきゃ、などと取り留めのない考えが浮かんできた。

そうしていると脳からの指令がだんだん遠ざかって、一日の疲れに柔らかく全身を包まれていく感覚を覚える。思わず目を閉じてしまった瞬間、眠気に捕まり朝霧はまどろみ始めた。

                   *

 授業の終わりを告げるチャイムの音、何とも懐かしい校舎のざわめき。朝霧は高校時代の記憶を夢で見ていた。

 級友たちの姿ははっきりせず、みんな灰色にぼやけてしまっていて見分けがつかない。その時、鮮やかな色を纏って朝霧の方へ歩いてきたのは自分と全く同じ姿の生徒だった。

水森虹夜(みずもりこうや)。朝霧の双子の弟だ。一卵性双生児である二人の姿は、声も顔も体格もあまりにも似すぎており、両親ですら区別がつかないことがあった。

しかし同じなのは見た目だけで、彼らの性格はまるで正反対だと周りからは言われていた。

「おい朝霧、今夜のドライブ忘れんなよ? ちゃんと来いよ。約束だからな」 

 虹夜が朝霧の背中を力任せに叩いて笑いながら立ち去っていく。その光景を朝霧はよく憶えていた。これが虹夜に会った最後の日。

『虹夜……今夜は行ったらダメだ! 虹夜! 虹夜!』

 朝霧は駆け寄って必死に声を張り上げているつもりだが、全く声が出ない。身体もその場から動かず、ただ離れていく虹夜の背中を見つめているだけだった。

 それもまた、あの日と全く同じ――

 この日の夜、虹夜が事故に巻き込まれ病院に搬送されたという連絡がくるのだ。そして、病院へ向かった両親も事故に遭い……そのまま朝霧のもとに誰も帰ってこなかった。

朝霧高校三年生、とある日の忘れ得ぬ思い出。

――カシャン!

 何かが落下した音で目を開けた朝霧は、ほんの僅かな拘束から解放され視線をさまよわせる。

床に落ちたのはこの家にある唯一のフォトフレームだった。のろのろと立ち上がって近付き、拾い上げると写真をじっと見つめる。そこに写っているのは笑顔の両親と双子の兄弟――朝霧と虹夜。片方は幸せそうに笑い、片方は泣きそうな顔をしていた。どちらが自分なのか朝霧にもわからない。

フォトフレームを仕事用のデスクに戻し、ソファーへ戻る。どさっと座り込むとスマホを取り出していつものメッセージを打ち込む。

「今日は届くかな……」

毎夜、送信するメッセージに一切既読はつかない。それでも朝霧は送り続ける。

――ちゃんとご飯食べてる? 体調を崩してない? また連絡するね

いつもの文言。そこに今日はもう一言を足す。

――父さんと母さんの店においで虹夜

送信してしばらく画面を見つめるが今日も反応はない。朝霧はふっと短く息を吐いて気持ちを切り替えると、傍らにスマホを置く。

「あっ……日付変わってる! ああっ発注!」

 時計を見た朝霧がソファーから飛び上がり、慌ててデスクのパソコンを打ち始める。

キーボードの音だけが響く部屋の中、朝霧のメッセージに初めて既読のサインがついた。